本日の気付き

今日の気づき・しょうくん編

しょうくんと久しぶりに会った。今回も、関係が進んだり特別な出来事が起きたりしたわけではなく、今まで通りだった。

でも会ったあと、自分がしょうくんに何を求めているのか、分からなくなった。

以前なら、

  • もっと会いたいのか
  • 関係を進めたいのか
  • 結婚したいのか
  • 何かしてほしいのか
  • この関係は何なのか

と「欲しいもの」を特定しようとしていた。でも今は、特にないなら、ないままでもいいと思えた。

たぶん今感じているのは、
「心を開ける人がこの世界にいて、その人に会えて嬉しい」
ということ。

しょうくんとの時間に、未来・関係性・愛されている証明・世間的な形まで上乗せしなくてもいい。何かが起きなかったからといって、会った意味がなかったわけでもない。

今までの自分は、一緒にいられる人がしょうくんくらいだった。

自分と感覚が似ていて、説明しなくても分かってもらえて、直されたり侵入されたりせず、不安定な自分を隠さなくていい。そんな相手でなければ、安心して一緒にいることが難しかった。

違う人と関わると、相手の反応を読んだり、自分を調整したり、相手を自分と同じにしたくなったりしていた。そのため、結果的に「自分と似た人以外は許せない」という状態になっていた。

でも今は、少しずつ、

「相手はそう感じるんだね」
「私はむー😡だけどね」
「違ったまま両方いていいか」

と思えるようになった。

相手と違っていても、自分を消さずに一緒にいられる。だから、これからはしょうくん以外にも、心を開いたり、一緒に過ごしたりできる人の範囲を広げられそうだと感じた。

しょうくんは「もう会わない人」でも、「役目を終えた人」でもない。これからも会いたいし、好きだし、大切な人。

ただ、
「一緒にいられる唯一の人」から「大切な人の一人」へ変わった。

これはしょうくんの価値が下がったということではない。しょうくん一人に「安心・居場所・未来・幸せのすべて」を背負わせなくなったということ。

「しょうくんしかいない」から、「しょうくんがいる」へ。

しょうくんとの間で知った安心が、自分の中にも育った。その安心を持ったまま、これからはほかの人とも関われる。

だから、しょうくんに対して出てきた気持ちは「ありがとう」だった。

「あなたがいたから、私は誰かに心を開くことを知った」
「あなたがいたから、世界にいる人をもう少し受け入れられそう」
「こんな愛の体験をさせてくれて、ありがとう」

この気づきに触れたとき、
「こんな愛の体験を、私がしていいんだろうか」
という涙が出た。

でもこの愛は、しょうくんが一方的に与えたものだけではない。しょうくんがいて、自分も長い間その人を大切に思い、理想や所有を少しずつほどきながら愛してきた。二人の間に、本当にそういう時間があった。

この体験を、結婚や永遠という形にして証明しなくてもいい。何かを返して帳尻を合わせなくてもいい。会いたいときに会い、大切な人の一人として好きでいていい。

そして、こんな愛や優しさがこの世界に本当に存在したことが嬉しくて、
「この世界って、もしかして素晴らしいのかも?」
とまで思えた。

結婚や世間体が気になる気持ちは今もある。将来、結婚という形を望んでもいい。でも、自分がその形に求めていた一番深いものは、

愛そのもの、優しさそのものを味わいながら生きること

だったのかもしれない。

結婚は愛を入れる器の一つ。でも今日は、器がまだ決まっていなくても、中身はすでに存在していると分かった。

「欲しいものがなくなった」のではなく、
いちばん欲しかったものが、もう自分の人生にあったと気づいた。

今日のしょうくん編は、たぶんここまでだね☺️❤️

レッテル

どう思われてるか気になるのは、私にもこう思われたいがあるから。自分の傲慢さが原因。

 

じゃあ、なんでこう思われたいがあるかというと、幼少期に、○○だよねとレッテルを貼られた経験があるから。

 

私のことを全てわかった気にならないで

本当に全てわかったなら私の苦しみを理解して

 

結局は、他人の見立てが実態と違う場合、その人の力量が不足しているということ。

自分が誇れることをしているのなら胸を張っていればいいし、変なこと言われたらはぁ😲でいい

核

私の根っこにあったものは、

生きるのがしんどい。それをずっと1人で抱えてきた

なんだと思う

 

人のエネルギーを拾うし、相手の思考回路まで理解してしまうし、適応しちゃう。

人より、対人処理の負荷が高くなりやすい。

 

 

多分、本当は親に

「繊細やからね。頑張り屋さんやからね」って言っても抱きしめてもらえたらよかった。

 

このしんどさは私1人のものじゃないと思いたかった。

 

 

私は、生きづらさを誰かと共有していい。

そして多分、言葉よりハグとかの身体接触の方が有効的。

身体接触を通して、1人じゃないと実感し、生きづらさを分散させたかった。

 

苦しい理由

① 生きること自体に長期間かなり負荷がかかっていた
→ ② それをほぼ自力で処理して生き延びた
→ ③ その結果、能力が上がった
→ ④ 能力が上がったら「できる人」としてさらに負荷を載せられる
→ ⑤ なのに、その過程を深く共有している人がいない

クリア

彼がお病気で女の子なとこがあるとこを認めた。

現実が見えてクリアになった。すっきりした。

より、一緒にいれる気がしてきた。

好きであることには変わらない。

 

 

彼を男性役から自由にした。

そしたら、私も無理して女性役をやらなくていいじゃん、と楽になった。

 

だから、今まで描いてた既存のカップル像、家庭像がなくなって、

彼を愛してることには変わらないんだけど、

どういう絵になるのかわからなくなった。

 

 

男性としてのしょうくんが欲しいわけじゃない。

妻になりたいでもない。

ただ、愛する人と一緒にいたい。